誕生の経緯 - ものづくり50年。そしてつぎの挑戦へ。

Commercial Design Center
創立1960年~1965年

時は、高度成長時代。
商店経営のコンサルティングからスタートし、
新時代の店舗設計事業を全国展開。

創立者喜多村哲(本名 喜多村哲夫)は、戦後創刊した雑誌『商店経営』編集部勤務からスタートし、その後、戦前からの商店経営指導家の集団である『商業経営指導協会』のメンバーとなり、以後、商店経営関係の雑誌に主として店舗計画の原稿を執筆。また、小売業を傘下にもつメーカーの依頼で講演活動を行う。父は、現「社団法人公開経営指導協会」の創設者であり、苛酷な税制から小売商を守る青色申告制度の生みの親でもある喜多村実だ。この頃は商店経営、特に店舗計画を指導する立場の人が少なく、メーカーの機関誌に執筆を連載したことで店舗計画に関する依頼が多くなり、これが商業デザインセンター設立のきっかけとなる。建築士、商業美術家を募集して、十数人のスタッフで会社を設立した。昭和35年(1960年)、東京オリンピックを4年後に控え、日本は高度経済成長の真っ只中にいた。
株式会社商業デザインセンター初代代表取締役社長(創立者)喜多村哲夫氏
私は若干25歳で「先生」と呼ばれ、商店経営に関する講演活動を行っていたわけですが、周囲の方に教えて頂くことの方が多かった。商業デザインセンターを起こしてからは、私がコンサルティングで全国を行脚し、セールスマン的な使命を帯びました。店舗設計の依頼は鰻登りに増え、当時は店舗設計部とグラフィック部(小売業の)、そしてコンサルティング部の3部門で12縲・3人ですから、本当に皆多忙でした。小売店だけではなく、高度経済成長時代に増えた、ショッピンセンターやスーパーマーケットなどの立ち上げに際し、全国から引合いがありました。また東芝、田辺製薬、サントリーなどの有名メーカーの店舗展開のコンサルティングや店舗設計など、身に余る光栄なお仕事をずいぶんとさせて頂きました。スタッフたちには仲良く自由闊達に仕事をさせ、経営者として監督する部分は最小限にとどめる。それが私の経営方針でした。
株式会社商業デザインセンター創立当時の会社案内
株式会社商業デザインセンター店舗設計部常磐隆氏
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昭和37年(1962年)に商業デザインセンターへ新卒で入社した私は、田辺製薬さんの担当になり、全国への店舗展開で、月に2縲・件の設計業務をこなしました。当時「デザイン」は1つの新しいキーワードで、カラーも斬新に赤や青などをファッショナブルにアレンジするのが流行りました。印象に残る仕事の一つに、昭和47年(1972年)埼玉県富士見市の「マツモトボウル」があります。かなりの自信作ですよ。ローコスト設計でというご依頼に、斬新なデザインで提案し、絶賛を浴びました。当初は他の設計事務所さんとのJVで、設計を担当してくださいというご依頼でしたが、商業デザインセンターはコンサルティングからマーケットリサーチまでやらせて頂きたいという意向で、一度はお断りした。そうしましたら、後で電話があり、ぜひお願いしたいと。私も喜多村社長も、オリジナリティをどう表現するか、をポリシーにしていましたから、それを曲げたくなかったのですね。忙しい毎日でしたが、自分たちの信念を誇りに、楽しく仕事をやらせてもらいました。
昭和40年(1965年)代前半の東京タワーと東麻布の光景。麻布十番のオフィスから東京タワーが望めた。

当時の主な出来事

1960年 ダッコちゃんブーム 1960年 ダッコちゃんブーム
1962年 世界初の「1000万都市」東京 1962年 世界初の「1000万都市」東京
1964年 東京オリンピック開会式 1964年 東京オリンピック開会式
1964年 東海道新幹線開通 1964年 東海道新幹線開通