成長の軌跡 - ものづくり50年。そしてつぎの挑戦へ。

Commercial Design Center
1966年~1987年

講演活動や有名企業の店舗指導、
TVへの出演、雑誌への記事執筆などを契機に、
仕事量は右肩上がりに。
寝る間も惜しむ店舗設計業務で、急成長。

喜多村社長のコンサルティング活動は、商店経営における指導者的立場を買われ、活発化した。昭和47年(1972年)からは10年もの間、NHKの 「商店経営」という番組に出演。設計業務の仕事がますます増加する中で、社員募集を行い、業務体制を強化した。また、商店経営に関わるディスプレイ教室、レタリング教室などの各種セミナーや、広告スペシャリスト養成講座を開催するなど、設計以外のお客様サービスをスタートさせている。会社としての成長と事業拡大の時期を迎えた。
株式会社商業デザインセンター 舗設計部千々波天晨氏
商業デザインセンターの面接では、設計部長に顔を合わせる間もなく、「明日から来てください」の一言。昭和41年(1966年)、私が30歳の時、知り合いに紹介された商業デザインセンターへの入社は、そんな一言で決まりました。とにかく人材が必要だった時期でした。私が担当した主な仕事は、函館市のショッピングセンター「和光ビル」、熊本市の「ムサシプラザ」など…北から南まで日本全国どこへでも出かけ、商業施設の開発と設計に携わりました。オフィスのある麻布十番には、当時「十番温泉」という黒い湯の温泉があり、一風呂浴びては仕事、また浴びては仕事…というくらいハードでした。ただ、お客様が喜ぶ顔を見たかったという理由で、苦にはならなかった。また、私たちの仕事は設計でも、あくまでも「商(あきない)」として成立するかが鍵。デザインが優れているだけでは片手落ちです。それが私の仕事上の鉄則で、ビジネスを前面に出して設計を考えました。
商業デザインセンターが担当した全国の商業施設(一部)
株式会社商業デザインセンターグラフィック部黒木博子氏
父が建築設計事務所を経営していたので、子どもの頃、よく測量の現場などへ連れて行ってもらいました。なので、建築には興味がありました。でも、学校は日本デザインスクール(現在の日本デザイン専門学校)で、グラフィックデザインを勉強しました。学校の先輩から商業デザインセンターを紹介された時は、一石二鳥(建築設計をやる会社でグラフィックデザインができる)と思い、即決しました。私の仕事は、店名のレタリングや包装紙のデザイン、チラシ、広告など、店舗に関わるあらゆる物を作成しました。会社主催のレタリング教室も手伝いました。会社の雰囲気は自由で伸び伸びといった感じで、今も変わりませんか?先代の喜多村社長の人柄から、“人間が宝”というお考えで、社員の人とは家族ぐるみで海や温泉へ行きました。居心地が良かったので、かれこれ20年ほど働かせていただきました。

当時の主な出来事

1969年 アポロ11号月面着陸 1969年 アポロ11号月面着陸
1970年 大阪万国博覧会 1970年 大阪万国博覧会
1972年 田中角栄日本列島改造論 1972年 田中角栄日本列島改造論
1973年 オイルショック 1973年 オイルショック
1977年 王貞治 本塁打世界記録756号 1977年 王貞治 本塁打世界記録756号